さくぶん道場主幹の講評
私も「セミとアリ」の話は初めて知った。イソップ物語に詳しい宮川先生が言うのだから、こちらのほうが元々のオリジナルストーリーなんだろうね。
でもキミが書いていたこと、つまりセミの一生は短くて冬にセミが存在するわけがない・・というところは気付かなかった。一本取られました。
この部分は意外に盲点かも知れない。確かにセミの一生は短い。七年の間土の中で過ごし、ようやく地上に這い出て陽の目を見るや、わすか七日間でその短い一生を終えるセミ。
だから七日七晩鳴き続けるのかな。セミって夜も鳴いている時があるよね。夜鳴かなくても短い夏の夜がうっすら明け始めるやいなや、まずセミが鳴き始める。夏はセミの声で起こされるくらいだから。どうしてセミはあんなに必死に鳴き続けるのだろうね。振り絞るように、七日間という限定された短い人生を独り鳴き通し、ひっそりと独り死ぬ。何を思って何を求めて声を張り上げるのかな。きっとセミにしか分からない理由があるに違いない。
一方、アリ。まるでセミと正反対。声を上げない。集団で押し黙ったままもくもくと食料を運ぶ。女王蟻や卵の世話を甲斐甲斐しく行う。そこに見える自己犠牲の精神。アリ社会の秩序維持のために個を消し一生を捧げる奉仕の姿。
アリは自己を捨てることで、集団という生命体の一部分となることで命をつなごうとする。
セミとアリ。こうして見るとどちらの人生も否定できない。それぞれがそれぞれの人生と時間を全うしているように見える。
アリが冬に腹をすかせ食べ物を求めるヨレヨレのセミに対し、
「おあいにくさま。分けるものはありません。夏に何をしていたのですか」
と、無下にドアを閉めたのも「自分の人生を責任もって受け止めなさい」と達観しているようにも感じる。
でも「アリとキリギリス」の話は様子が違ってくるよね。
まずキリギリス自体がなんとも中途半端。何となく遊んで何となく仕事して食べて・・みたいな存在に思えてしまう。
そんなテキトー君にアリは手を差し伸べ、
「夏のあいだどうしていたのですか?」
「歌って唄って踊って遊んでいました」
「それはいけない。その時私たちは汗を流して働いていたのですよ」
と、キリギリスを迎え入れ食べ物を与える。
「あなたの生き方は間違っている。私たちのようにしないと痛い目に合うよ」と諭し、アリは模範生として描かれている。
宮川先生流に言えば、「人生設計しないと大変な目に合う」という単純な教訓話にすり替えて人生や社会の「正解」を暗に示し、それを認めればキリギリスのようなテキトー君でも困った時に助けてもらえるという「救い」を提示している・・となるのだけど、キミはそこのところをどう読みますか?
こういう話って、何の疑いもなく「教訓」としてすんなり受け入れる人間と、「違和感」を持つ人間に分かれる。たぶん、これから年齢を重ねるうちに、何度となくこういう場面に出会う。そのたびに、他人や世間から与えられた「正解」が本当に正しいか悩むことになる。でも悩まない人間もいる。もしかしたらそちらのほうが幸せかも知れない。そのほうがキリギリスのようにアリ社会から庇護してもらえるかも知れない。
何はともあれ、私はやっぱり自分が選んだ人生は何がどうなろうと愛したいね。そのくらいの覚悟と責任を持って生きていきたいです。
さくぶん道場主幹 恩田澄江
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