作文道場 さくぶん道場/今月の五選/g1111

今月の優秀作品

その1

「一日の食卓」  小6 女子

W_No_01.gif
「いーかげんに起きなさぁい!」
朝、こうさけばれ起床。眠い目をこすりながら、しぶしぶ食卓につく。
「あっ、やっべぇ!もう6時30分!?」
今、私の学校では六年の朝補講があるので、7時に上を出なければならない。
「パンは食べんといかんとよ〜、炭水化物やけんね!」
もう耳にタコができるほどきくこのセリフ。インスタントの卵スープを食べるのに夢中な私は、たいていパンを半分食べて学校へ。
昼。パン一枚食べなかったことを後悔し、グルグル鳴るお腹をおさえ、待ってましたとばかりに食いつく給食。みんなで好きな芸能人や給食の味の評価について熱く語る。1時頃には、男女のおかわりジャンケンの力強い声も。みんなで同じものを食べる一体感。なんとなくクラスの雰囲気も和やかに。
夕食。ふだんはじゅくで10時を過ぎてしまうが、食卓につくとなんとなく心が落ちつく。ついつい1時間も食べていたりするのだ。これには自分でもあきれる。魚の骨をむしるのにかなりの時間を要するのだ。最近は大好きなイクラをおばあちゃんにもらったので、一つぶ一つぶ食べているので、プラス30分かかる。
我が家の食卓には、笑顔が絶えない。いつもみんながおもしろいわだいをもちこむ。
「ごはんよー!」
おっともう夕食かぁ。
「今日こそは30分で食べなさいよー!」

【講評】
食卓・・・、なにか特別な響きのある言葉だなぁ。
食卓という場所は、いろんな問題も解決してくれて、悲しいことも癒してくれる。そして懐かしい思い出もこの場所から生まれていく。
食卓に座ってご飯を食べられることは、とても幸せなことだよ。これを普通にやっている人たちは当たり前すぎてあまり感じないだろうけど、これが出来ない人たちにとって食卓を親しい人たちで囲む風景はどれほどうらやましく映るだろう。
文乃ちゃんも家の食卓もとても楽しそうだ。文乃ちゃんのママはお裁縫がとっても上手だからきっと料理も上手だと思う。
私の母も料理がうまい。高級食材は使わないけど、味つけのセンスがいい。ちょいちょいちょいっと、あり合わせの材料を組み合わせて美味しい料理を作ってしまう。
母親の手料理を食べてきた子供は、きっと健やかに愛情深く成長すると思う。「根拠(こんきょ)や証拠はあるの?」って言われたら出せないけど、なんとなく確信している。手料理っていうのは、やっぱり愛情の結晶じゃないかな。大げさかもしれないけど人間の原点であるような気もする。
食卓では家族のいろんな話が出てくるよね。なかなか言い出せなかったことも食卓ではポロリと出せることもある。何か大切な決め事も、食卓をはさんで行われることも多い。
食卓で人間関係が作られていくといってもいい。文乃ちゃんも書いているように給食の時間は和やかな雰囲気に包まれる。「みんなで同じ物を食べる」って、ひとつのものを分け合うことに通じるのかも知れない。そこから生まれる連帯感。
なかには「嫌いなものも出る給食なんていらない。好きなものを自由に食べたほうがストレスもたまらないし本人の健康にもいい」という意見もあるけれど、給食にはそんな単純こと以上の深い意味が含まれているのかも知れない・・と、キミに指摘されて気がついた。
みんなで分け合って同じものを噛み締める幸せってのも、あるよね。
食卓の話題が出たので、私が小学6年か中1のとき(だったと思う)国語の教科書に載っていた石垣りんという女性の詩を紹介します。今も載っているのかな?朗読してとても印象に残って、今でも思わずつぶやくことのある詩です。

「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」  石垣りん
それはながい間 私たち女のまえに いつも置かれてあったもの
自分の力にかなう ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで 光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や 祖母や またその母たちがいつも居た
 
その人たちは どれほどの愛や誠実の分量を 
これらの器物にそそぎ入れたことだろう
ある時はそれが赤いにんじんだったり くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり
台所では いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意の前にはいつも幾たりかの あたたかい膝や手が並んでいた
 
ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など 繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ 無意識なまでに日常化した奉仕の姿
炊事が奇しくも分けられた 不幸なこととは思われない
そのために知識や 世間での地位が たちおくれたとしても おそくはない
私たちの前にあるものは 鍋とお釜と 燃える火と

それらなつかしい器物の前で お芋や 肉を料理するように
深い思いをこめて 政治や経済や文学も勉強しよう
 
それはおごりや栄達のためでなく 全部が人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように

添削者/恩田

その2

『無題』 中1 男子

W_No_02.gif
 合唱コンクール(校内)を少し前にやった。
ぼくたちのクラスは合唱コンクールで良い賞をとるために朝や放課後を使って合唱練習をしていた。ぼくは最初のころは、なんでこんなにも時間を使って合唱練習をするのだろうと思ってめんどくさがっていた。(練習にはちゃんと参加していた)
 しかしあるとき休んだ人がいたときに、休んだ人の分までがんばらなきゃと思った日があった。そしてなるべく本気を出して歌ってみたら練習がすぐに終わった気がした。
 そこであることを思い出した。そのこととは、遊んでいるときには、時間が早く感じることだ。それは楽しくおもしろいことをしていると時間を短く感じ、いやなことだと長く感じる。つまり今自分が合唱を楽しんでいるんだ。
 それに気づいてからの合唱の練習はなるべく本気を出すようにした。
 その長い練習のおかげか、学年で優良賞(3位)をもらった。
 ぼくはこの合唱コンクールからは何事も楽しくすれば時間を短く感じるし、うまくなれるということが分かった。
 このことをいかして地獄の音楽もなんとかしていきたい。

【講評】
時間は長くも短くもなる。よく考えてみれば不思議な現象だよ。
今回の話にあったように、音楽の時間中、時計の針は拓海くんがだらけていようが集中していようが同じペースで動き、同じ時刻を指す。でも拓海くんの感覚では、時間はつまらなければ長いし本気で取り組んでいれば短く感じる。時間はたったひとつ、という訳ではなく客観的時間と主観的時間があるのだろうか。
よく聞くのが「大人になると時間が経つのが早い」ということ。これは本当なんだ。小学生の頃、夏休みやお正月は待てど暮らせどなかなかやって来なかった。日曜日さえめぐって来るのは遅かった。でも大きくなるにつれ、夏休みもお正月もめぐって来るのが早くなった。今では1年があっと言う間に過ぎてゆく。瞬(またた)く間に歳を取っていく。切ないね。
でもこんなパターンもある。振り返ってみるとあっと言う間だったけど、なんとなくギュっと濃縮された濃密濃厚な時間を過ごしたような気分になる時がある。拓海くんが本気で合唱の練習をした時間はこれに当たるのだろうね。その逆で薄っぺらな時間を過ごしてしまった感覚になる時もある。
つまり時計という万国共通の物質に管理された時間の流れのなかに置かれながらも、実は人間はそれぞれ独自の時間を生きているのかも知れない。
浦島太郎の民話はそれを物語っている。夢のように楽しい時間を乙姫と竜宮城で過ごした浦島太郎の時間感覚はほんの1年たらずだった。でも陸上の世界ではすでに百年が過ぎていた。浦島太郎と世間の時間は別次元で時を刻んでいた。
つい最近、身近で感じたことだけど、私がよくドライブに行く場所に一軒のお豆腐屋さんがある。とても美味しい豆腐でテレビでも何度も紹介されている有名店なのだ。そこのオヤジさんを初めて見たとき、50代後半くらいにしか見えなかった。それから本当の年齢を聞いてビックリした。もう来年は70歳になるという。そのオヤジさんはいつも「俺の気持ちは48歳で止まっている」と言っていた。オヤジさんが言うことには、若い頃体に障害が残る大ケガをして普通の会社ヅトメが出来なくなったんだって。
それで一念発起して48歳の時、この豆腐屋を始めたそうなんだ。それから365日、20年間まったく無休で思考錯誤(しこうさくご)しながら豆腐を作り続けてきた。48歳で店を始めてから日曜やお盆休みや正月という区切りをつけずにずーっと店を開けて働いているから、48歳の時の自分がそのまま続いているんだって。
なるほど〜と思ったね。だから若いわけだ。つまり人間は自分の気持ち次第で肉体的老化という細胞の時間をも止めたり引き延ばすこともできるってことだろうか。
それなら、もしも世界中から時計というものを消し去ったら、いったい人間の時間の進み方はどうなるだろう。公共の時間はなくなって、ごくごく個人的なものになっていくのかな。あっという間に老けてゆく人間と、永遠に歳を取らない人間に分かれるかも知れない。私はとっても興味がある。
う〜む。時間とか次元とか、もうこうなると本格的な物理学の世界になってくる。
こういうところにアンテナがピピっと立つのは、さすが理系のキミらしい。大きくなったらぜひともこの時間と次元の謎を解いてほしいものです

添削者/恩田

その3

『人って』 一般 女性

No_03.png
人は一人では生きて行けない、時折聞いたりする。本当にそうなのか。いや一人だって生きて行ける。何かそんなことを考えた。
狩人も森の中ではある意味孤独、山わろも同じ。自分の存在価値を確認する為か、それとも自分の居場所に侵入されたからか、二つとも当てはまるかもしれない。
わざわざ面倒な言ってみる。誰かと関わりたいが為にだ。狩人も早く行ってくれればいいのにと思いながら、逃げるわけでもなく、腰が抜けて逃げられないわけでもなく。二人の不思議な距離とやりとり。
一人であるが故に、興味を相手に抱き、自分に関心を持って欲しい素振り、薪が偶然割れ、そこまでとなってしまったが、関わりたいという人の欲求を見たようだった。
そして、相手の中に自分の一部を見たのではないか。他人と合わなくて嫌いだとか、苦手だとかいう感情。それは相手の中にある、気になる部分を自分の中に持っていたりする。だから、この人のことはあまり好きになれない、と感じたりするらしい。山わろが「おれが早くどこかへ行ってくれればいいと思っているな」という所、そう思われるだろう自分の気持ちを重ねて見ている気がする。
人は誰かがいないと、実は自分自身の事でもわからないものなのかもしれない。鏡の様に。

【講評】
う〜ん。今回の作品、久々だけど私の想像力はかなり刺激されました。まず冒頭の「人は一人では生きていけない・・・いや一人だって生きて行ける。何かそんなことを考えた」という文章。
そう、私たちはお約束事のように「人は一人では生きていけない」というフレーズを頻繁に使います。でも本当にそうだろうか?と美穂子さんは問いかけた。いや、確かにそうです。常套句のように使ってはいるけれど、人はその時になればきっと一人だって生きていける、逆に必死になって生き抜こうとすると思います。「生き残ろう」という思いは生物としての本能に根ざしていると思うから。
じゃあ、どうして「一人では生きていけない」と人間は漠然と思うのか。それは「生きていけない」というよりも、「一人では自分が何者であるかわからない」と言うほうが正しいかも知れません。
人間は社会やコミュニティーを作る生き物です。そして他者と細やかなコミュニケーションを図りつつ悲喜こもごもの様々な感情を生み出し、そこに生きることの楽しさや快感や意味を見いだしていくものです。そして他者との関わりの中で自分と他者の違いを発見し、そこではじめて「個」として目覚め、自分の存在意義とか自分が何者なのかということにこだわるようになるのでしょう。
よく若い人は「自分探し」とか言いますが、環境が変われば生きることにせいいっぱいの国の人たちは、自分を探す余裕などないよね。今日を生き延びられただけでもう十分。「自分探し」は見る人が見れば一種のぜいたく病に映るかも知れない。
山わろも狩人も、いわば娑婆(しゃば)とは一線を画している存在。山には人間が暮らす下界とは明らかに違う世界がある。山に生きる者たちは人間界のように社会を構成し群れることはしない。独りで山の中をさ迷っている時、彼らの中に「存在意義」とか「自分」という観念は生まれるのだろうか。彼らの「個」は明確な輪郭を描いているだろうか。いや、そうじゃないように思う。個も存在意義も、山に満ちる空気と一体化して揺らぎながら曖昧になってしまっているんじゃないかな。
そんな彼らが山中で偶然出会う。その瞬間「個」が生まれる。美穂子さんが作品に書いたように、まるで鏡を向けられたように。彼を知ることで、自分を知る。それとも山わろは孤独な狩人の心象が造り出した幻なのか。狩人の心が造り出すものは彼の心を映したもの。それは狩人とは姿形を異にする異形のモノだが、それもまた彼自身。彼の中の他者、もう一人の彼。だから狩人の心を読めるの当然なのだ。そして人はそういう者に惹かれてゆく。自分の中の他人に惹かれてゆく。恐怖は好奇心の、憎しみは愛情の、裏返しの表現方法と言える。
結局人って、こういうタイプが大好きだ大嫌いだと言っていはいるものの、それらはすべて自分自身に向かって語っていることになるのでしょうか。ややこしいですね。

添削者/恩田